2011年6月20日月曜日

遠くに立って

野本先生は北は函館、南は長崎、と出張でお忙しくされていますが、函館からは六花亭のバターサンドと、長崎からは説教の導入を持って帰ってきて下さいました。

今日の説教の冒頭部分では、箏曲の「六段」と中世のグレゴリア聖歌「クレド」の共通点について、野本先生はCDを用いて紹介されました。この共通点というのは、立教大学の教授をされていた皆川達夫先生が立てておられる仮説ですが、

(野本先生の説教より↓)
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このクレドというグレゴリア聖歌と、箏曲の六段と、全体の構成や、区切りや段落などが、不思議なほど一致しているというのです。一つ一つの段が104拍で統一されていますし、最初の弾き出しのところも、クレドの最初のリード部分と一致するし、最後のアーメンの部分と終わりの部分も一致するというのです。しかも、信仰の内容を強調している部分には、六段ではアクセントが付けられたり、半音変化が付けられたりしていて、音楽的に強調されているのだそうです。   
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曲を載せられたら良いのですが著作権の問題がありますので、興味がおありの方はココでCDをご購入下さい。(Amazonの回し者ではありませんが、便利なので…。)

箏曲の「六段」を誰が作曲したのかは定かではありませんが、皆川先生はクレドを教会へ行って聞いた人か、あるいは作曲者自身が信徒だったのか、クレドをよく知っていた人が作曲したのではないか、と推測されているそうです。そして、キリシタンたちが唱えたであろう「クレド」が「六段」という器楽曲として姿を変えて、キリシタン禁制時代の弾圧をくぐり抜けて、現代まで継承されてきたのだと皆川先生はお考えのようです。

もしそうなのであれば、この「クレド」が埋め込まれた「六段」を守ってきた人たちは、殉教しなかった・できなかった人たちです。自分たちのことを罪人だと思いつつ、生き残った人たちです。 聖人になれなかった人たちです。

今日の説教箇所はルカによる福音書18章9-14節です。
この箇所では、あるファリサイ派の人と、徴税人の人の祈る姿勢についての対比がなされています。ファリサイ派の人は、自分は神の前で正しい行いをしてきたと思っています。一方で、徴税人は『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」言いました(13節)。イエスは次の14節で「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とはっきり仰られました。

以下、野本先生の説教からです。
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ということは、この徴税人は、遠くに立って、胸を打ちながら、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈っただけで、罪を赦され、義とされ、家に帰ることができたのです。彼は、十字架を見ていた人たち(ルカによる福音書23:49@イエスが十字架にかけられる場面)と同じように「遠くに立っていた」のです。しかし、この「遠く」というのは空間的な距離のことではありません。彼の心の中の距離、神さまとの距離のことです。神さまから、もう遠くへだてられているとしか、自分では思えない、それこそが罪ということなのですが、そういう神さまとの、無限に近い、遠いところに立たされている自分を自覚しているのです。

しかし、このように、神さまから遠くに立っていることを自覚するとき、じつは神さまはイエス・キリストの十字架という場所におられたのです。天のかなたではなく、罪人のひとりとなって、罪人にもっとも近くにおられたのです。群衆たちも、イエスを知っていた人たちも、イエスに従っていた女性たちも、みんな遠くに立っていた。この徴税人と同じように。しかし、その遠くに立っていると思われた、まさにその場所に、神さまはイエス・キリストという姿で、罪人のひとりのようになって、「遠くに立って」いる仕方で、じつは最も近いところに来ておられたのです。    

ですから、罪人は、罪人であることを自覚しさえすればいい。わたしたちは、信仰に強くなくても良いのです。弱くてもいい。いや、信じられなくてもいいのです。ただ、そういう憐れな自分であることを自覚しさえすればいいのです。それが、神さまから遠く離れていることですから、そのことを嘆き、胸を打って、そして、憐れんでくださいと、祈りさえすればいいのです。
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今日の説教は音声ファイルが残っていませんが、代わりに原稿が全て掲載されています。
文字でもう一度説教を読むことにも、独特の深い味わいがありますね。


園庭の百合です

※私事ですが、20日〜22日まで日本基督教団の新任教師オリエンテーションに参加するため、伊豆に行ってきます。(文責 木谷佳楠)
6月19日の週報です。※プライバシー保護のため、教会員の名前は記載していません。