2011年4月17日日曜日

足を洗うということ

今日の聖書箇所はヨハネによる福音書13章1-12節で、野本先生が「弟子たちの足を洗ったイエス」と題して説教をして下さいました。「足を洗う」という行為をキーワードにした、とても印象深い説教でした。ここでとんちんかんな説教要旨を書いてしまって、野本先生に「そんなこと言ってないよ…」と思われてしまったらいけませんので、要旨は書きませんが、「足を洗う」という行為について先生がご説明下さったことを少しご紹介したいと思います。
4月17日の週報です。※プライバシー保護のため、教会員の名前は記載していません。
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旧約聖書の中には「足を洗う」という表現は以下の8箇所で出てきます。

(1)創世記18章4節:アブラハムが3人の旅人(神の御遣い)をもてなす時
(2)創世記19章2節:ロトが旅人(神の御遣い)をもてなす場合
(3)創世記24章32節:ラバンがアブラハムのしもべの一行をもてなす時
(4)創世記43章24節:ヨセフの執事がヨセフの兄弟たちをもてなす時
(5)士師記19章21節:老人が旅の途中のレビ人の一行をもてなす時

これらの箇所では旅人をお客さんとしてもてなす、ということの始まりの行為として象徴的に出てきます。

(6)サムエル記(上)25章41節:アビガイルがダビデの妻になることを承諾する意志を表す時
(7)サムエル記(下)11章8節:ダビデが部下のウリヤに「自分の家に帰って足を洗う」ことを勧めている時
(8)雅歌5章3節:恋人の男性が夜ひそかに女性を訪ねてきた時、その女性が胸のときめきを表現している時

これらの箇所では「足を洗う」ということは、「愛の交わり」に入ることを表現しています。

―――以上のように、旧約聖書で「足を洗う」ということは、外の世界(あるいは汚れている罪の世界)から内なる世界へ、また、危険な旅の世界から安らぎと愛の満ちた家の中へ、そして孤独から愛の交わりの世界へと入ることを表すキーワードなのです。

おそらく旧約聖書の世界に親しんでおられたイエス・キリストも「足を洗う」ということがどういう意味を持つのか、ご存知だったはずです。「足を洗う」ということはどういう意味を持つのか、「分かる者には分かるんだ」という意味を込めて、ご自分の愛を伝えるために弟子たちの足を洗われたのでしょう。

今日の聖書箇所であるヨハネ13章1節で「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書いてあります。「世にいる弟子たちを愛し」と書いてあるように、この時イエスと弟子たちは「この世」にいるけれど、今や「イエスの時(終わりの時、十字架に架かる時)」が来たのです。この、終わりの時を前にして、これからイエスと弟子たちは最後の晩餐、つまり愛の時を持つのです。この愛こそは、この世のただ中にも働き、同時に「死」という限界をも越えて働くものです。

イエスはこの世を共に歩いて来た弟子たちの足を洗うことで、彼らの罪や汚れを洗おうとしているのです。そして、罪や汚れに満ちたこの世から足を洗って「神様の愛の国へ一緒に入ろうではないか。そのことを悟れ」と言われているのではないでしょうか。 

足を洗うということは、それ自体は大した行為ではありませんが、それが弟子たちを「愛し抜く」ことだと1節に強調して書かれているのは、この「足を洗う」という行為のほんのひと時に、神様の国という、神の愛の世界への招待と共に、既に神様の愛がそこに凝縮されて注ぎ込まれているからなのです。

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これを聞いた時、「なるほど!」というか「ひゃ〜!」という気持ちになりました。ここのイエスが弟子たちの足を洗うという聖書箇所では、「神の子イエスが弟子たちの『足を洗う』という、本来ならば奴隷がする行為を自らが行うことによって、弟子たちにも互いに仕え合うことを促している」という解釈に基づく説教ならば何度か(も?)聞きましたが、旧約聖書での「足を洗う」という行為の意味を踏まえると、イエスが弟子たちに示そうとしたことは、もっともっと深いことだったのだと解りました。(と、ちゃんと説教を聞いていることをさりげなくアピールしておきます。)


礼拝後、青年会(10人)はカフェ・ベルディへ行ってアイスクリームを頂きました。


チョコレート・アイスクリーム


来週はイースターなので、皆足を洗って教会へ集合です!(文責 木谷佳楠)